令和8年度東京大学大学院入学式 研究科長式辞
令和8年度東京大学大学院入学式 研究科長式辞
東京大学大学院に入学、進学された皆さん、本日は誠におめでとうございます。皆さんの新たな門出を祝い、この場に立ち会えることを大変嬉しく思います。また、これまで皆さんを支えてこられたご家族、関係者の皆様にも、心よりお祝い申し上げます。
皆さんは今日、高度な専門性を備えたプロフェッショナルとしての第一歩を踏み出されました。期待と同時に、どこか捉えどころのない不安も感じているかもしれません。そこで今日は、私自身が陥っていた無意識の思い込みと、そこから得た気づきの体験をお話しします。これからの探究の旅への餞として聞いていただければ幸いです。
私は現在、生命科学の分野で遺伝子の働きを専門に研究していますが、実は、高校時代、生物学をそれほど熱心に勉強していませんでした。当時の私は、数理や物理が示す明快な論理に惹かれており、生命現象はどこか複雑すぎて、一貫した法則の見えにくい曖昧な世界のように感じていたのです。
しかし大学入学後、幅広い学問領域に触れ、遅まきながら生命科学の概念を深く学び直すことで、私の視界は鮮やかに塗り替えられました。それは、言わずと知れたジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによるDNA二重らせん構造の発見、そしてクリックが提唱したセントラルドグマという原理でした。この原理は、DNA上に書かれた設計図が書き写され、それをもとに実体へと作り上げられていく見事なまでに合理的な情報の流れを示すものです。そこには、かつて私が抱いていた曖昧さはありませんでした。4つの文字で書かれたデジタルな情報すなわち遺伝暗号が、厳密な対応表に従って、生命のかたちへと翻訳されていく。この驚くほどシンプルな秩序に、私は物理法則にも似た美しさを感じ、生命科学の道へ進むことを決めました。
大学院で分子遺伝学を専攻した私は、その秩序を支えるメカニズムを解明しようと、研究の世界に飛び込みました。しかし、そこにはすでに多くの先達がおり、数々の重要な業績が築かれていました。果たして自分は、ここに何かしらの新しい貢献を付け加えることができるだろうか。そんな不安が日に日に大きくなりつつあったさなか、ある出来事が、私の研究者としての姿勢を大きく変えるきっかけとなりました。
それは、国際共同研究のために、真夏の日本を離れ、真冬の南半球へ渡った時のことです。連日実験室に籠り、成果を出すことに必死だった、ある晴れた夜、研究室から宿舎への帰り道に、凍えながら、ふと寒空を見上げました。そこには、満天の星が広がっていました。しかし、その光景を前にして、私は感動するよりも先に、何とも言えない心細さに襲われたのです。
そこでは、私が慣れ親しんできた北半球の星座を、あるべき空のどこにも見つけることができませんでした。北斗七星も、カシオペア座もなく、見知らぬ星々が、私を見下ろしていました。私は無意識のうちに、自分の知っている形を探して、視線を彷徨わせていました。その時、はたと気がついたのです。私は未知の解明を志しているつもりでいながら、心のどこかで、誰かがすでに描いた星座、すなわち既知の知識をなぞることに安心感を覚えていただけだったのではないか、と。
帰国後、私は自分の研究をあえて未知の領域に進めることを決心しました。当時、多くの研究者が遺伝子翻訳の始まりの仕組みの解明に挑んでいましたが、私は、ほとんど注目されていなかった、遺伝子翻訳の終わり、すなわち翻訳の終結機構という地味なテーマを選んだのです。
実は、遺伝子翻訳のルールの多くが解明される中で、この終わりの暗号だけは、なぜか例外として、とり残されていました。他の暗号はすべて、対応する情報の運び屋の分子が読み取ってくれるのに、この暗号だけは、何がどのように受け取るのかが解明されていなかったのです。あれほどシンプルで美しいルールが、そこだけ通用しない。まさに、見慣れた星座が見当たらない南半球の星空のような領域でした。
私はその孤独な暗闇に踏み込み、十数年をかけて、単なる例外と思われていたものの中に、実は他の部分と同じ、生命を貫く美しい秩序が隠されていることを突き止めました。それ以来、このテーマは私のライフワークとなり、四半世紀が経った今もなお、その探究を続けています。星座が定義されていない星空に、自分だけの星座を描き出せた喜びが、私を突き動かし続けているのです。
この体験は、皆さんの前にある生成AIを考えるうえでも重要です。もし当時の私がスマートフォンを持っていたら、それを空にかざすだけで、AIが過去の膨大なデータから即座に既知の星座を答えてくれたでしょう。しかし、それに安心することは、暗闇に潜む発見を見逃す落とし穴になり得ます。AIは既知の星をなぞることは完璧にできても、暗闇の中の星々に新しい意味を与えることはできません。効率的な正解に頼りすぎれば、皆さんの独自の視点は失われてしまいます。現在、私たちは過去のどんな時代の科学者よりも高い巨人の肩に乗り、未知の星空に近づくことができます。しかし、その肩の上から暗闇を見つめ、無数の星の中から意味を見出し、新たな星座を描き出すのはAIではなく、皆さん自身の人間の知性なのだと思います。
AIの答えにふと物足りなさを感じる瞬間。論理的には正しいが、心が躍らないといった、その小さな違和感こそが、AIには到達できない、皆さん自身の独創性が芽吹く予兆であるのだと思います。どうか、効率的な正解だけで満足しないでください。その先にある、未踏の領域へ踏み込む、知的な粘り強さを持ち続けてください。かつて私が南半球で見上げたときのような、地図のない暗闇を恐れないでください。
ときには目印を見失い、足踏みをしてしまうこともあるでしょう。しかし、困難をものともせず、むしろその孤独な暗闇を心地よいものと割り切って、淡々と歩みを進める姿勢こそが、新しい景色を切り拓く力になります。皆さんがそれぞれの未知の星空を見つけ、そこに新しい星座を描き出すことを心から楽しみにしています。皆さんには、未知を照らす知性と、共に歩む仲間がいます。この東京大学は、多様な背景を持つ皆さんが、安心して探究を深められる場所です。
皆さんがこの知的な発見に満ちた旅を、存分に楽しまれることを願い、お祝いの言葉としたいと思います。
令和8年4月13日
新領域創成科学研究科長
伊藤 耕一
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