2021年に東京大学中東地域研究センター (UTCMES) では、連続セミナー「遺産と中東」を開催した。日本語で「遺産」と聞くと、守り伝えていくものというイメージが先行する。世界遺産がその最たるものであろうし、家族の資産という意味で遺産という言葉をあてる場合も、散逸や喪失を避けるべきものとして想起される。一方で、アラビア語で遺産を意味する「トゥラース」という言葉では、伝統 (タクリード) や芸術 (ファン) のほかに、慣習 (アーダート) や文化 (サカーファ) のような、日々の生活に根ざした事柄にも意味的に近接する。アラビア語圏だけではなく、ペルシア語圏、トルコ語圏はもちろんのこと、ヘブライ語やその他移民先の言語圏のなかで、「遺産」というキーワードによって描き出される社会や人びとの姿を示そうというのが、連続セミナーの狙いであった。この連続セミナーのなかでさまざまな専門性を持つ講師によって展開された「遺産」を巡る議論を、初学者向けに入門書の体裁に整えて刊行したのがこの本である。
部のタイトルには、それなりのこだわりがある。これは当時の中東地域研究センター特任助教の宇田川彩さんによるアイデアで、すべての部を動きで表現している。セミナーの登壇順ではなく、専門地域や方法論 (文学、人類学、宗教学といった学問ごとに見られる対象との取り組み方) を横断してなお見られた共通性を、動詞で表現した試みである。四つの部は、それぞれ「つなぎ、紡ぐ」、「過去の地層を巡る」、「形づくる」、「引継ぎ、広げる」とした。
改めて本書の内容を振り返ると、コロナ禍ですべてオンラインで実施されたセミナーの様子がありありと思い返される。第一部「つなぎ、紡ぐ」には、南米在住ユダヤ人、紛争下のシリア文学、エジプトでの中道イスラーム主義思想の展開を扱う章が配置された。故郷や原典といった起点から離れ、なおそこに繋がっていこうとする人びとの営みが各章で論じられた。第二部「過去の地層を巡る」では、エジプトのコプト・キリスト教徒、中世の食卓、イランでの俗信が取り上げられている。中世まで遡る章が含まれることから明らかなとおり、本書のなかでも最もダイナミックに時代を遡っていく章が配置されている。第三部「形づくる」では、トルコの神秘主義教団、アルジェリアの建築、オマーンにおける文化遺産保護のあり方が取り上げられた。第四部「引継ぎ、広げる」と同じように、どちらかといえばいま現在にちかい時代を論じる章が多い部である。実際のところ、第四部では、翻訳による国際法の受容、アメリカでのイスラーム教育、そしてパレスチナ人が引き継ぐ遺産が各章で論じられた。
論じる地域や場所が違うだけではなく、本書の各章は学術的な方法論も実のところさまざまに異なる。「遺産」をキーワードに、中東研究の広がりを体験してほしい。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 特任准教授 鈴木 啓之 / 2025)
本の目次
I つなぎ、紡ぐ
第1講 「アレッポ人」と「ダマスカス人」からセファルディ系へ(宇田川 彩)
第2講 「飛び去ったもの」の記憶(柳谷あゆみ)
第3講 ムスリム知識人が問うアラブ世界の近代(黒田彩加)
II 過去の地層を巡る
第4講 中東のキリスト教遺産(辻明日香)
第5講 中世イスラームの食卓(尾崎貴久子)
第6講 イランの俗信の流儀(竹原 新)
III 形づくる
第7講 アレヴィーと遺産(若松大樹)
第8講 ガルダイヤとジェルバ島のイバード建築(松原康介)
第9講 現代オマーンにおける文化遺産政策の展開(近藤洋平)
IV 引き継ぎ、広げる
第10講 アラビア語圏における国際法受容の初期段階(沖 祐太郎)
第11講 アメリカでイスラームの伝統を学ぶ(髙橋 圭)
第12講 パレスチナ人にとっての遺産とアイデンティティ(鈴木啓之)
あとがき
関連情報
<連続企画>駒場中東セミナー
遺産と中東:文化・歴史・信仰の展開(全13回) (東京大学中東地域研究センター UTCMES 2021年6月2日~2022年1月12日)
https://park.itc.u-tokyo.ac.jp/UTCMES/2021/04/27/%E9%81%BA%E7%94%A3%E3%81%A8%E4%B8%AD%E6%9D%B1%EF%BC%9A%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%BB%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%83%BB%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B%EF%BC%88%E5%85%A813%E5%9B%9E%EF%BC%89/

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