戴震 (1724-1777) は中国清代の雍正年間から乾隆年間に活躍した学者です。清代とはいかなる時代でしょうか。中国には儒学や老荘思想をはじめとして、西洋とは異質の哲学が存在しているとされています。中国哲学史は二千数百年前の春秋時代まで遡ることのできる長い歴史を持ち、その中では時代ごとにさまざまに特徴のある哲学が形成されながら、今日に至っています。ところが、17世紀から20世紀の初めまで続いた清代は往々にして哲学が貧しい時代であると言われています。この時代に大いに栄えたのは考証学と呼ばれる文献学的学問でした。戴震は清代考証学の最高峰であるとされる人物です。
しかし、考えてみると「哲学」という概念は本来、西洋の学問に特殊なものだったはずです。日本の明治時代初期に、西洋の学問を体系的に学ぶ過程でphilosophyと呼ばれる学問領域に「哲学」という訳語を与えることによって、アジアにおける哲学の発掘が始まります。中国哲学とか中国哲学史という呼称もこの時に初めて登場したものです。つまり、清代には哲学が乏しかったという判断は、19世紀末から20世紀初めにかけて支配的だった「哲学」の形式と内容にふさわしい学問を基準として成り立っている中国哲学史叙述の中で行われているに過ぎないということになります。
哲学は不思議な学問です。政治学や経済学、生物学、医学など、多くの学問はその対象を明確に定義することができますが、哲学にはそのような定義可能な対象を特定することができません。したがって、何が哲学であり、何がそうでないかを判断する基準がどこにあるのかを問うこと自体、ある種、哲学的な知的営為だということになります。
本書は、戴震を例に取り上げることによって、「清代には哲学が乏しかった」という常識に疑問を投げかけ、中国哲学とは何か、ひいては哲学とは何かについて、改めて問いかけようとした試みです。なぜ戴震を取り上げることによってこのような問いが可能になるのでしょうか。それは、考証学者、とりわけ同時代には漢学派の考証学者として最も優れた学者だった戴震が、近代になると、清代における例外的な哲学者として脚光を浴びることになったからです。
漢学者戴震はなぜ哲学者であると見なされるようになったのでしょうか。そこには、長い王朝時代を克服して近代的な国家を創造しようとした中国の知識人たちによる「哲学」概念の理解が作用しています。彼らは、異なったやり方で、戴震の遺した膨大な学問体系を整理分類し、その中から哲学的要素を取り出そうとしました。しかし、彼らが依拠していた哲学に対する理解のあり方は一様ではありませんでした。その結果、同じ戴震の学問からは複数の異なった哲学像が生まれていきます。そして、彼らは各々の哲学を構想していくのです。
本書は、章炳麟 (1869-1936)、梁啓超 (1873-1929)、王国維 (1877-1927)、劉師培 (1884-1919)、胡適 (1891-1962) らを取り上げて、それぞれにとっての「戴震の哲学」像を描いています。それらの中には、今日の中国哲学分野では扱われることのなくなってしまった学問領域も含まれています。つまり、本書は中国哲学の可能性を拡張することを目指して書かれたものです。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 教授 石井 剛 / 2026)
本の目次
序章 戴震とは誰か
I 「戴震の哲学」前夜の哲学論と戴震論
第一章 清末の哲学論――梁啓超と王国維の戴震論
第一節 梁啓超の哲学観
第二節 梁啓超の戴震論
第三節 王国維の哲学観と戴震論
第四節 小結 胚胎期の「戴震の哲学」論
第二章 国粋と革命――劉師培と章炳麟の戴震論
第一節 劉師培の戴震論
第二節 章炳麟の戴震論
第三節 章炳麟・劉師培の学術と戴震
第四節 小結 戴震と近代革命
II 「戴震の哲学」言説の検討
第三章 「戴震の哲学」言説の確立――梁啓超と胡適の「戴震の哲学」とその影響
第一節 梁啓超と『晨報』の戴震論
第二節 胡適の方法論と「戴震の哲学」
第三節 小結 「戴震の哲学」論の二流派
第四章 西学影響下の経学言説――戴震の時代と思想
第一節 清代学術と科学
第二節 戴震の経学と「聖人」
第三節 戴震の理と性
第四節 小結:経学の黄昏と「権」の可能性
III 戴震から中国近代哲学へ
第五章 欲望と倫理の歴史哲学――戴震から劉師培へ
第一節 理と分
第二節 劉師培の三綱批判
第三節 大同主義の歴史哲学
第四節 小結 劉師培論の射程
第六章 漢学からの哲学――章炳麟の斉物哲学と言語論
第一節 「公理」から「斉物」へ
第二節 戴震と章炳麟の小学
第三節 章炳麟の言語論と哲学
第四節 言語と文体
第五節 「天籟」を問う
第六節 小結 章炳麟と天籟
終章 漢学から哲学へ
あとがき
参考文献/索引(人名・書名,事項)/中文提要/英文目次・要旨
関連情報
第6回シンポジウム オンライン開催「国家と宗教」 (未来哲学研究所、東アジア藝文書院 2023年3月29日)
https://miraitetsugaku.com/
書評:
文景楠 評 (Harvard-Yenching Institute 2015年6月2日)
https://www.harvard-yenching.org/research/dai-zhen-and-chinese-modern-philosophy-philology-philosophy/

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