「此国、今の風俗に染まり居て、心あわひも智慧の働きも、悉く其クルワを出[ず]」(「太平策」)と江戸時代の儒者の荻生徂徠が記しているように、人は、誰もが自分を取り巻く有限な世界、すなわち「風俗」の中で生きていますが、それに慣れ親しむと、いつのまにかそれが誰にでも通用する「道理」だと考えがちです。このとき、異なる「風俗」を有する他者との遭遇は、人々に、自らがある特定の「風俗」の中にあることを自覚させ、それを相対化するきっかけとなります。たとえば徂徠の場合、父の「江戸払」により「風俗」の全く異なる「田舎」で青春期を過ごしたという経験が、「風俗」の差異と変遷を理解するための機会となったのですが、19世紀に入ると、当時の日本列島に住んでいた人々は同時的にこのように異質な他者との遭遇を経験しました。通商その他の目的で来航したロシア、英仏、そしてアメリカなどの西洋諸国という他者が大きな存在として浮かび上がったのです。
異質な他者との遭遇は自他の「風俗」を意識化する機会であると同時に人々の従来信じていた「道理」の崩壊へとつながりかねない危機でもありました。たとえば、当時の人々が身につけていた儒教の華夷秩序的世界観は、西洋諸国を含む拡大した世界秩序をもはや十分に説明できなくなりました。こうした状況において、思想家たちは、普遍的な「道理」と固有の「風俗」といった儒学の概念と思想資源を用いて、西洋という他者を理解しようとしながら、日本の固有性、国民のあり方についても思索し始めました。本書の前半では、水戸学者の會澤正志斎と昌平黌の儒学者の古賀侗庵、中村正直を取り上げ、「道理」を再解釈しようとする過程で、視線を「風俗」へと転回させ、西洋という他者にありのままを直面するに至った徳川末期の思想家たちの思索の過程を描きました。
「風俗」への着目が進む中で、それを構成する民衆の存在感も次第に大きくなっていきました。儒教的な思考方法においては、「風俗」の優劣はあくまで統治者による「政教」の結果とされていましたが、明治期に入り、文明開化の中で政治の重要な主体となりつつあった国民の智力、道理、そして感情などの諸要素が一国の「風俗」を左右するようになりました。このように「人心風俗」が激しく揺れ動く時代状況において、「風俗」を、誰が、どのように導くべきかという新たな課題が生じました。本書の後半では、明治期の「風俗」の改良という課題に対して、智識による「籠絡」という方法を検討した文明論者の福沢諭吉と「感情」を喚起する方法を提起した水戸学者の内藤耻叟の試みを分析しました。
19世紀の人々は、「風俗」の多様性を直視するからこそ、異なる人々が互いのつながりの中で生きていくための共通の土台、すなわち新たな「道理」を希求しました。このような「道理」と「風俗」の絶え間ない思索の往還は、今の時代を生きる私たちにも決して無縁ではないような気がするのです。
(紹介文執筆者: 常 瀟琳 / 2025年10月3日)
本の目次
第一章 「道」と「俗」の間――出発点としての會澤正志齋と古賀侗庵
はじめに 「正道」への志
第一節 「天人之道」
第二節 「風俗」の差異
第三節 「道」と「俗」の間
第四節 古賀侗庵―會澤正志齋との比較
第二章 「理」と「風俗」の間――徳川末期における中村正直の思想展開
はじめに 「理」と「風俗」の間
第一節 「国体」の再定義
第二節 中村正直の「理直」論
第三節 アロー戦争の衝撃と「天道」の転覆
第四節 「理直」から「風俗」へ
第五節 西洋の風俗の探求
第六節 「風俗」論の発展と「天理」の再確認
第三章 「籠絡」の思想史――福澤諭吉と文明への途
はじめに 「風俗」の変容と人心「籠絡」という課題
第一節 「籠絡」の語源と徳川時代の用法
第二節 福澤諭吉の明治初年の「籠絡」理解
第三節 『文明論之概略』における「籠絡」論
第四節 「籠絡」をもって「籠絡」を打破する
第四章 「感情の時代」における「人心」と「風俗」――内藤耻叟の挑戦
はじめに 「感情の時代」へ
第一節 内藤耻叟、その人物と思想
第二節 祖述と差異―内藤耻叟の『明道論』
第三節 「尊王攘夷」運動からの政治的な教訓と明治期の挑戦
第四節 「理」と「情」の間
第五節 感情の善導
第六節 感情と学問
終章 「風俗」論のゆくえ
関連情報
学生表彰・東京大学総長賞 (東京大学 2025年3月19日)
常 瀟琳 「道理」と「風俗」― 水戸学と文明論の十九世紀
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/students/events/h12_03.html
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400259225.pdf
第7回西周賞 (津和野町 2024年9月)
常 瀟琳 「理」と「風俗」の間―徳川末期における中村正直の思想展開― (『日本思想史学』第55号 pp.100-117、2023年9月)
https://www.town.tsuwano.lg.jp/www/contents/1725867469943/index.html
第18回日本思想史学会奨励賞 (日本思想史学会 2024年7月)
常 瀟琳 「理」と「風俗」の間―徳川末期における中村正直の思想展開― (『日本思想史学』第55号 pp.100-117、2023年)
https://ajih.jp/shoureishou/shoureishou.htm
第5回東京大学而立賞受賞 (東京大学 2024年)
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/research/systems-data/n03_kankojosei.html
シンポジウム:
第21回西周シンポジウム (島根県立大学・津和野町 2024年12月7日)
常 瀟琳 他者へのまなざし——中村正直と西周の思想的転回
https://www.town.tsuwano.lg.jp/www/contents/1733708283847/index.html
書籍紹介:
尾原宏之 (甲南大学)「2025年上半期の収穫から 44人へのアンケート」 (『週刊読書人』第3599号 2025年7月25日)
https://dokushojin.net/news/1050/