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第6回GSIセミナー 金子亜美「宗教的なるもの」の発見と翻訳

掲載日:2026年5月22日

基本情報

区分 講演会等
対象者 社会人・一般 / 在学生 / 教職員
開催日(開催期間) 2026年6月25日 15時 — 16時30分
開催場所 駒場地区, ハイブリッド
会場 対面:東京大学 駒場Iキャンパス18号館4階 コラボレーションルーム1

オンライン:Zoomウェビナー
お申込いただいた方に、ZoomのURLをお知らせします。
参加費 無料
申込方法 要事前申込
参加を希望される方は、ミーティング登録ページから参加登録してください。

対面参加・オンライン参加とも事前に登録する必要があります。
その際、対面参加の場合は、姓名の後に〇印を付してください(記入例:東大 太郎 〇)。

定員:対面20名程度、オンライン100名程度
申込受付期間 2026年5月22日 — 2026年6月25日
お問い合わせ先 グローバル・スタディーズ・イニシアティヴ(GSI)事務局
contact*gsi.c.u-tokyo.ac.jp
※メールを送信する際は、*を半角@マークに変更してください。

第6回 GSIセミナー 金子亜美
「宗教的なるもの」の発見と翻訳:16世紀イベリア両帝国南米植民地における他者の記述をめぐって

【司会】
吉国浩哉(総合文化研究科言語情報科学専攻)
【コメント】
受田宏之(総合文化研究科国際社会科学専攻)・中尾沙季子(総合文化研究科地域文化研究専攻)
【言語】日本語
【共催】グローバル地域研究機構(IAGS)、地域文化研究専攻(今回のグローバル・スタディーズ・セミナーは、地域文化研究専攻研究集会を兼ねるものです)
【要旨】
万民への宣教を掲げるキリスト教は、まさにその使命ゆえに、宗教的他者と出会いその精神を理解することを運命づけられた宗教と言える。とりわけ大航海時代以降に展開したキリスト教の世界宣教においては、これがしばしば植民地主義的暴力と不可分の関係にあったことを忘却すべきではないにせよ、同時にこの宗教が自らの教義と実践の普遍性を貫徹させるための方途として、他者の文化慣習や諸言語の研究、そしてそれらへの適応や、現地語への教義の翻訳に注力してきた歴史もまた看過すべきではない。諸宗教における聖典の翻訳可能性自体が自明ではないことを思い起こすなら、キリスト教宣教師たちによる異文化の記述とその蓄積は、それ自体後の人文・社会学系諸学の成立につながる契機を内包していたと言える。実際宣教師たちは、各地で「神」や「聖霊」、「罪」、「犠牲」に相当する土着の神話や観念を特定しようと試み、それらを発見(あるいは「発明」)しては記録にとどめていった。こうした記述の蓄積は、19世紀における比較宗教学の初期の論者たちに重要な一次資料を提供したが、しかしそれらはしばしば、諸地域で見出された「宗教的なるもの」に対するキリスト教的注釈という性格を帯びていた。トーテムやタブー、マナといった概念枠組みが形成される一方で、これらがキリスト教的な語彙や思考によって説明されたことは、その後長らく宗教研究の視座に制約を課した。したがってこうした一次資料とそれをもとに書かれたものを読む際には、その背後にある書き手の宗教概念が、いかにして現地の「宗教的なるもの」を翻訳可能なものとして構成したのかという点に批判的に向き合うことが必要となる。
発表者自身は、16世紀以降のスペイン領およびポルトガル領南アメリカ植民地における先住民のキリスト教化を研究しているが、そこでは植民地統治上の要請と、教義と実践の通約可能性に関するキリスト者たちの確信に基づき、現地の先住民言語での宣教が試みられた。その過程で蓄積された現地語や文化慣習に関する膨大な記述の一部は同時代のヨーロッパで広く読まれ、そこで表象された「未開」や「野蛮」の像は、あるべき近代国家の姿をめぐる議論において重要な参照点となった。そうした記述はある意味で、一定期間の現地滞在を経て生産された「民族誌」の先駆けと言えなくもないが、他方でアメリカの地に聖遺物や聖トマスの足跡を見出したとする度々の報告が示すように、キリスト教的宇宙論の現地への投影という面も色濃く帯びている。
「宗教 religion」として範疇化された実践が必ずしもアブラハム的宗教の枠組みに収まるものではない可能性を認識するのであれば、導かれうる別のアプローチとしては、世界には多様で複数の「諸宗教 religions」が存在するという前提のもとに、それぞれの固有性を描こうとする文化相対主義的なものがあるだろう。しかしこの立場も、なお「宗教」という概念を用いたままそれを複数化するにとどまり、その構成要件を満たすと思われる事象を「宗教」として論じざるを得ない――と同時に満たさない事象を「宗教」とはみなせない――という原理的な問題をなお残している。
本発表では、このような相対主義的解決が既知の概念の複数化という戦略に依拠することの認識論的限界を指摘した上で、16世紀植民地化初期の南アメリカ先住民に関して宣教師たちが「宗教」として記述した諸実践が、当の人々にとっては「宗教」ではなかった可能性――ただしそれは、当時のキリスト者たちが先住民を特徴付けるのに用いた「宗教の不在」を意味するのでもない――を検討する。その上で、宣教師によって「宗教(的なるもの)」とみなされた諸実践が、先住民にとっては世界と他者を経験するための一つの方途として機能していた可能性を探究する。

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